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栄枯盛衰の歴史を語る、沼津市街地に残る史跡
沼津城には慶長以前の古城(三枚橋城)と、安永以後の新城(沼津城)がありました。
三枚橋城は、「北条氏政書状」によると天正7年(1579)、武田勝頼が後北条氏に対抗して築城したとされています。
武田氏の滅亡後の天正10年(1582)、徳川家康の命により松井忠次(松平康親)が城主となり、天正18年(1590)には豊臣秀吉の家臣中村一栄が城主となっています。その後、慶長6年(1601)大久保治右衛門忠佐が城主となりますが、同18年(1613)、忠佐の死後世継ぎがないため三枚橋城は廃城となり、以後160余年間沼津に城は置かれませんでした。

その後、安永6年(1777)に、後に老中となる水野忠友が同じ地に沼津城を築城します。沼津は城下町として発展し、城の南北は現在の静岡銀行沼津支店から沼津駅の手前までで、大手門は静岡銀行の西むかい側に造られ、本丸は中央公園辺りにありました。
歴代藩主は忠友・忠成(ただあきら)・忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)・忠敬(ただのり)と続きますが、忠敬の時明治に至り、徳川氏の駿河移封に伴い、水野藩は菊間(市原市)に移り、城は沼津兵学校の校舎に使用されました。

その後兵学校は廃校となり、明治5年(1872)に城の建物を競売に付し解体され、同22年(1889)には東海道線開通に伴い、城内を南北に縦貫道路が設けられました。その後、沼津は2回の大火に遭遇し、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはできなくなりました。現在は、中央公園に本丸跡の碑があり、公園の南東に石垣の遺構が残っています。
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