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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する阿野全成(あのぜんじょう)
沼津市ゆかりの阿野全成を皆さんにQ&A方式でご紹介します

Q1 阿野全成はどんな人?(出生)
A1、河内源氏の棟梁源義朝の7男で、母は常盤(常磐)御前、幼名は今若丸です。生まれは仁平3年(1153)とされます。異母兄に鎌倉幕府を開いた源頼朝、同母弟に源義経がいます。7歳の時、平治の乱で父義朝が敗れ、平氏方に母弟と共に捕らわれますが、助命され京都伏見の醍醐寺に預けられ出家しました。その後、名を全成と名乗りますが、悪禅師とも呼ばれていたようです。
治承4年(1180)、頼朝の挙兵に際しては、醍醐寺から抜け出して、修行の僧を装い東に向かい、下総国の鷺沼(現在の千葉県習志野市)で頼朝と合流を果たします。

Q2、大河ドラマの主役 北条氏との関係は?
A2、阿野全成は、北条時政の娘の阿波局を娶っています。阿波局は北条義時と北条政子の妹にあたり、一説には時政と後妻 牧の方の娘とも言われています。北条氏とは大変近しい関係と言えます。

Q3、鎌倉幕府内での立ち位置は?
A3、妻の阿波局は源頼朝と北条政子の次男で、のちに3代将軍となる源実朝の乳母(めのと)を務めました。このため、阿野全成も実朝の乳母夫(めのと・めのとぶ)となり、当時の武家社会では実朝の養育係・後見人ともいえる立場でした。

Q4、阿野の名前の由来は?
A4、源頼朝から阿野に領地を与えられたことから、土地の名称を名字として名乗ったと思われます。中世の阿野は沼津市西部から富士市東部にかけての地域と言われています。
なお、阿野の地名の由来については、浮島沼の植生に由来する説があります。

Q5、阿野全成は何をした人?
A5、鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』には、源頼朝から武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、源氏の祖先を弔う祈祷を命じられたことが記されていますが、このほかの活動の記録が残っていません。
また、信濃国(現在の長野県)の武士の領地安堵に携わった古文書が残されており、『吾妻鑑』に記されていない政治的な活動も数多く行っていたことが推測されます。

Q6、その後、阿野全成はどうなったの?
A6、建仁3年(1203)、阿野全成は2代将軍源頼家の命で武田信光によって捕えられてしまいます。その後、宇都宮朝業に預けられたのち、常陸国(現在の茨城県)に配流され、下野国(現在の栃木県)で八田知家の手で殺害されました。沼津市井出の士詠山大泉寺には全成のものとされる墓が伝わっています。

Q7、なぜ殺されてしまったの?
A7、源頼家の母は北条政子ですが、母の実家の北条氏や実弟の源実朝と対立関係にあったようです。将軍になった頼家は乳母夫である比企能員と協力して政治を行うようになり、実朝や北条氏の力を弱めるために、実朝の乳母夫である阿野全成を殺したと思われます。



Q8、阿野全成の家族はどうなったの?
A8、全成が捕まった際、妻の阿波局は鎌倉の館にいたことから北条政子に匿われて難を逃れました。京都にいた子の阿野頼全は、追っ手が差し向けられ、源仲章によって京都東山の延年寺において殺害されてしまいます。もう一人の子の阿野時元は助かったようです。

Q9、その後、阿野時元はどうなった?
A9、『吾妻鑑』によれば、3代将軍源実朝が暗殺され、源氏の正統が途絶えてしまったのち、時元が謀反したとの情報が鎌倉に伝わりました。挙兵の理由は、天皇の宣旨を得て東国を支配するためとされます。北条政子と北条義時は御家人の金窪行親を差し向け、時元は敗れて自害してしまいました。不明な点も多いですが、承久の乱が起きる前の朝廷と幕府との争いに巻き込まれてしまったと思われます。現在、士詠山大泉寺には時元のものとされる墓も残っています。

Q10、阿野全成に関する伝説はどんなものがあるの?
A10、全成が下野国で殺害された時、全成の首が一夜のうちに飛んできて阿野の館前の松の枝に掛ったとの伝説があります。かつて士詠山大泉寺の門前にはその伝説の松が残っていましたが、松くい虫の被害で枯れてしまい、今は記念碑が建てられています。
栃木県益子町には、全成と従者のものと伝わる墓が残っており、全成が殺害された場所とも言われています。
また、士詠山大泉寺付近から南へ通じる道には「矢通り道」という名前がついており、全成が弓矢を放ったことに由来します。
  • 【大河ドラマ「鎌倉殿の13人」】 沼津市ゆかりの阿野全成Q&A

    相関図

  • 【大河ドラマ「鎌倉殿の13人」】 沼津市ゆかりの阿野全成Q&A

    士詠山大泉寺にある阿野全成・時元のお墓

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