行きたいリスト
  • 白隠木像(松蔭寺開山堂)

白隠のこころと歴史にふれる散歩道

時を超えて人々を魅了する白隠禅師

沼津市の原地区周辺にお住いの方とお話した際、「松蔭寺」、「白隠禅師」のことを親しみ込めて「白隠さん」と呼んでいたのがすごく印象的でした。
亡くなって250年以上経った今もなお地元の人たちから尊敬され、愛される白隠禅師の魅力と、白隠禅師の「共に生きて助け合う」その想いを受け継ぎ、まちづくりに奔走する地域の皆さんの活動を紹介します。
沼津市原地区周辺には、白隠禅師にゆかりのあるスポットが点在しています。

(1)松蔭寺:白隠宗の大本山。享保2年(1717年)以降約50年間、白隠が住職を務めました。
 全国から多くの雲水が訪れ、多くの僧が修行したと知られています。
 「開山堂」には、生前から作られた思われる「白隠木像」がまつられています。

(2)長興寺:臨済宗妙心寺派の寺で、白隠禅師のもとに集まった修行僧の宿坊(しゅくぼう)として使われました。

(3)清梵寺:臨済宗妙心寺派の寺で「地蔵堂」があり、「原のお地蔵さん」と親しまれています。
 建物正面に白隠禅師の「願王閣」の扁額(門戸や室内に掲げる横に長い額のこと)があり、
 「地獄極楽変相図」は年1回7月の地蔵尊祭の時に展示されます。 

(4)西念寺:
白隠禅師が幼い頃、地獄の苦しみから逃れたい一心で日々参拝に訪れていた時宗の寺。

(5)昌原寺:日蓮宗の寺で、7歳の岩次郎(後の白隠禅師)は、この寺で聞いた「堤婆品」を暗唱して
 人々を感動させました。11歳の時に聞いた「地獄の説法」がキッカケで「地獄の恐怖からの解脱」が、
 白隠禅師の出家の動機になりました。
 ※堤婆品(だいばぼん)とは、「堤婆達多品(だいばだったぼん)」の略。法華経の第12品。

(6)徳源寺:臨済宗妙心寺派の寺。白隠禅師が14歳の時、東芳祖均首座(とうほうそきんしゅそ)から古典の素読、読み書き等を習いました。

(7)白隠禅師誕生地:白隠禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」が今もお清水をたたえています。

(8)白隠桜並木:沼川沿い約5㎞の区間に約600本のソメイヨシノが植えられています。
 白隠禅師生誕300年祭に記念植樹した由来で、「白隠さくら」と呼ばれています。

(9)白隠みち:宿坊の「長興寺」から「松蔭寺」まで修行僧が通ったとされる小道。
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原駅~白隠の里地区の歴史を巡る

原駅~白隠の里地区の歴史を巡る

オススメのまち歩きコース

「JR原駅」から国道1号線沿いの「白隠桜並木」までを歩く、約2時間のコースです。

少年時代のエピソード
お人柄、教えについて、白隠禅師がかつて住職を務めた白隠宗の大本山「松蔭寺」の宮本圓明(えんみょう)住職にお話を伺いました。

【白隠禅師について】
白隠禅師は、駿河国原宿(現・沼津市原)で「澤瀉(おもだか)屋」を営む長澤家の三男として1685年(貞享2)年12月25日に誕生、
岩次郎と名付けられました。
2017年に整備された「白隠禅師誕生地」には、産湯を汲んだとされる井戸が残っています。

賢く感受性の強い子どもだったと言われている岩次郎。5歳の時にこんなエピソードが残っています。
・・・
海岸へ遊びに出かけ、同じ年頃の子ども達が浜辺を走り回る中、岩次郎は遊ばないで雲の流れをジッと見て過ごしたのだとか。
そして、流れる雲を見て無常を感じ、「世の中に変わらないものはないのですか?」と尋ねたそうです。
そんな岩次郎に母親は「仏の教え」と答えました。信心の厚い母親の存在が、岩次郎の人生に大きな影響を与えたのではないでしょうか。
人間味あふれる白隠禅師
11歳の時に「昌原寺(日蓮宗)」で地獄の説法を聞き、地獄に対して強い恐怖感を抱いた岩次郎。
そして、幼い時に虫など小さな命を殺生してしまった懺悔の気持ちを自身で解決することができず悩んでしまいます。

地獄の苦しみから逃れる道を求め、「八畳石」や「赤野観音堂」を訪れ坐禅をして過ごしていたそうです。

15歳で出家。松蔭寺の単嶺(たんれい)和尚のもとで得度し、“慧鶴(えかく)”と名付けられました。
その後、大聖寺、息道和尚のもとでの修業を経て、19歳の時に出立しました。

24歳の時に一度悟りを開いたと自負しますが、信州飯山(長野県)の正受庵・正受(しょうじゅ)老人にその慢心を徹底的にくじかれ、正受老人のもとで厳しい修行を続けついに悟りを開くことができたのです。※正受老人=道鏡慧端(どうきょうえたん)

臨済宗の中興の祖と呼ばれる白隠禅師ですが、こういった人間味あふれるエピソードを聞くとより身近に感じられますね。
岩次郎が訪れた海(沼津市原周辺)
岩次郎少年が訪れたのは、沼津市原周辺の海岸。
時を忘れて、流れる雲を眺めてみては。
赤野観音堂
沼津新八景のひとつに数えられ、市内では数少ない江戸前期の建築様式を示す建物で、市指定有形文化財となっています。木造茅葺きのこのお堂は、左甚五郎がわら人形に手伝わせて一夜のうちに造ったという、わら人形伝説も伝えられています。
境内には、大カヤの木があり、市指定天然記念物となっています。
八畳石
高さ約3メートル、石の上面は平らになっていて約50平方メートルの広さがある、巨大な石です。江戸時代の大雨で、山の東側部分から落ちてきたと言われています。また、白隠禅師が少年時代にこの石の上で修行したという言い伝えや、ほら貝の伝説も伝えられています。
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沼津の宝100選

沼津の宝100選

岩次郎が座禅をした「八畳石」、「赤間観音堂」は、「沼津の宝100選」に選ばれています。
雲が流れる様子をみつめた原地区の海岸など、ゆかりのスポットに足を伸ばして白隠禅師に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

  • 垂れた墨にまつわるエピソードから伝わる当時の暮らしぶり

    垂れた墨にまつわるエピソードから伝わる当時の暮らしぶり

多くの人々を救った禅の教え
33歳の時、沼津市原の「松蔭寺」の住職となり、34歳で“白隠慧鶴(はくいんえかく)”を名乗ります。
さらに修行を続け、42歳の時、大悟徹底(だいごてってい)し、慈悲心により衆生済度(しゅじょうさいど)を決心し、
晩年まで各地を巡り歩き禅の教えを民衆に広めました。
※大悟徹底: 意味、欲望や迷いなどの煩悩を全て捨てて悟りを得ること。 
※衆生済度:生きている全てのものを迷いから救い出し、悟りの境地へと導くこと。

【難しい禅の教えをわかりやすく伝えるための独自の方法】
・文章(漢字ではなく仮名を使うことでわかりやすく)
・詩
・絵(禅画の絵解き)


多くの人を救い安らぎを与えようと、精力的に布教活動をした白隠禅師。
自らがいなくなった後も、禅の教えを残していけるよう、見本となる数々の著作を残しました。

“お互い助け合っていこう”、“より良くしよう”、“困難を乗り越えよう”
人のあるべき道や共存共栄の願いが込められた白隠禅師の書画を通じて、どれだけ多くの人が救われたことでしょう。

民衆に禅の教えを伝えるため、白隠禅師は生涯に1万点を超える書画を描いたといわれています。
長期間の説法会の際には、全国から集まった何百人という多くの修行僧を受け入れた松蔭寺。
周辺の人たちが食べ物など寄付してくれ、そのお礼にと書画を送っていたのだそう。

お礼に書いた書画の墨が乾く間もなく、修行を支えてくれる人々に弟子の雲水が届けたという、
布教活動で多忙な白隠禅師の日常と地域との関わりが伺えるエピソードが残っています。
  • 70歳前後の作品「楊柳観音図」

    70歳前後の作品「楊柳観音図」

  • 84歳の書「南無地獄大菩薩」

    84歳の書「南無地獄大菩薩」

  • 松蔭寺には約50本の墨蹟があります

    松蔭寺には約50本の墨蹟があります

  • “毎年4月29日の「寺宝虫干し」の1日のみ”どなたでも書画を観ることができます

    “毎年4月29日の「寺宝虫干し」の1日のみ”どなたでも書画を観ることができます

松蔭寺が所蔵する墨蹟
松蔭寺には、およそ50本の墨蹟(ぼくせき)が残っています。
書画のテーマは、“布袋”、“釈迦”、“達磨”など様々。

なかでも、70歳前後の作品といわれる「楊柳観音図(ようりゅうかんのんず)」について、
「慈愛に満ちた母親のやさしい眼差しを感じますね。
モデルは白隠禅師の母親だと確信しています。」と、宮本住職。

また、84歳で亡くなる直前に書かれたであろう「南無地獄大菩薩」も所蔵されています。
自ら地獄に身を置いて生きとし生けるものを助けようという菩薩道こそが禅の道、
太く力強い書にはそんな想いが込められています。

地位、富、名声には目もくれず、亡くなる直前まで禅の教えを広め続けた在り方こそ、
生涯をかけ禅の道に邁進した白隠禅師の本当のすごさだと宮本住職。

また、その墨蹟は、白隠禅師の「命」を書き残したものともお話して下さいました。
作品を目の前にすると、250年経った今見ても鳥肌が立つほどのエネルギーを発しているように感じました。

松蔭寺では年に1度、毎年4月29日の「寺宝虫干し」の1日のみ
白隠禅師の書画を拝見することができます。
大変貴重な機会ですので、この機会をお見逃しなく。ぜひご自身の目で力強い書画をご覧ください。
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県指定史跡「白隠禅師墓」

県指定史跡「白隠禅師墓」

松蔭寺に白隠禅師が眠る墓があり、県指定史跡になっています。
本堂裏の墓地に3基の無縫塔があり、向かって左側が白隠禅師のものです。

  • 整備された「白隠みち」

    整備された「白隠みち」

  • 白隠禅師誕生地

    白隠禅師誕生地

  • 白隠禅師が生まれた時に産湯を汲んだとされる井戸

    白隠禅師が生まれた時に産湯を汲んだとされる井戸

歴史に寄り添う原地区の安心快適に暮らせるまちづくり
沼津市の原地区は、かつて東海道13番目の宿場「原宿」が栄えた宿場町でした。
戦火を免れ、東海道に沿って神社や寺院が並ぶ、昔のままの景観が残る歴史的価値の高い地域です。

平成13年に東海道400年祭が実施されたことをきっかけに、
白隠禅師にまつわる地域資源を活かしたまちづくりを目指す声があがりました。

そこで、地元住民や寺院などの代表者により、平成17年8月に「白隠のみち整備協議会」が設立。
JR原駅から東へ約400メートル、東海道本線と旧東海道の間の約9.5ヘクタールの区域において、地元と行政の協働で散策路等の整備をスタートしました。

【白隠のみち整備協議会メンバーが目指したまちづくり】
・原地区の魅力を再発見するワークショップの実施
→地元住民30人ほどが参加し、いくつかの班に分かれて原地区を歩きました。
後世に残したいものや場所を発表し合い、改めて地域資源について意見を出し合いました。
白隠禅師誕生地をはじめ、「長興寺」の槙の大木石蔵など、
小さな頃に遊んだ場所といった地元住民ならではの思い入れのあるスポットが多数あげられました。

・先進都市の視察実施
→三島市や藤枝市など、東海道の宿場町があった場所へ足を運び、
歴史と自然を生かした景観づくりの参考にしました。

幾度となく話し合いを重ね、2年という長い時間をかけて事業の基本コンセプトを決定しました。
10年以上にも及ぶ長期の活動を成し遂げられたのは、
地域住民の地域を愛する熱い想いと入念な準備があったからこそと考えます。
こんなところに注目して歩いてみてくださいね
平成20年度に事業に着手し、平成31年度に事業完了を迎えます。
歴史や文化を感じる景観づくりを目指し、白隠の里を整備しました。
 
交差点の名称
平成17年度から進めてきた事業の完了を記念して、整備区域内にある交差点の名称が「原交番東」から、2020年3月6日に「白隠誕生地前」へ変更されました。交差点の東南側に「白隠禅師誕生地」があります。
 
明るい道路
道路は従来のアスファルトではなく、地元住民が各場所をイメージした色やデザインのタイルを選び設置。
松蔭寺は、「白隠」のイメージから白色のタイルで参道を整備しました。
タイル選びは、「景色に馴染むこと」を意識しました。
 
情報板
足元に「情報板」を設置。
情報板を参考に進めば、初めて訪れた人でも道に迷うことなく散策を楽しめます。
 
「なかみち」の石標
「帯笑園」の近くに、「なかみち」の石標が設置されました。
ここから、歴史にふれる散策路へお出かけください。
 
趣のある街灯
情緒ある雰囲気づくりを目指し、ノスタルジックなデザインの街灯を設置しました。
 
道幅が広くなりました
事業開始以前は道幅が狭いため緊急車両が通れない箇所もありました。
道幅が拡張されたことで通行が可能になり、地域の人が安心して暮らせるようになりました。
 
白隠みち
白隠禅師の元に全国から修行に訪れた修行僧の宿坊でもあった「長興寺」。
松蔭寺と長興寺を結ぶ、修行僧が往来した「白隠みち」も綺麗に整備されました。
白隠禅師も歩いたであろう「白隠みち」を、当時の様子を想像しながら歩いてみては。
 
案内板
JR原駅から「白隠の里」への訪れやすさ、散策しやすさを配慮して作成された案内看板を設置。
白隠禅師のゆかりの場所、沼津市原地区の寺院や史跡を紹介しています。
 
  • 「白隠のみち整備協議会」会長 渡辺正教さん(写真右)、副会長 松下宗柏さん(写真左)

    「白隠のみち整備協議会」会長 渡辺正教さん(写真右)、副会長 松下宗柏さん(写真左)

原動力は「Proud HARA」
15年にも及ぶ長期に亘る事業が令和2年3月をもって完了します。
平成17年の協議会発足以降、地域資源を活かしたまちづくりを目指し力を尽くしてこられた、
「白隠のみち整備協議会」会長 渡辺正教さん副会長 松下宗柏(そうはく)さん(長興寺ご住職)にお話を伺いました。

▶長期に亘る事業、どのような感想をお持ちですか?
(渡辺会長)
よくできたなの一言ですね。正直なところ、一番最初に聞いた時は「無理だな」と思ったんです。
でも、事業がスタートすると、皆さんが話し合いやワークショップに積極的に参加してくれたり、
それまで大人しい印象だった人が自主的に意見を出してくれたりと雰囲気も良かった。
良いスタートが切れたからここまでこれたんだと思います。
活動しながらメンバーの思いがけない一面を知ることができました。
ここまで皆さんに引っ張ってきてもらったという思いです。

(松下副会長)
私も最初は「どうなるかな」と漠然と思いました。
しかし、素晴らしい御縁が重なって、いろんなことが良い方に進んだんです。
これは白隠さんの念力が通じたんじゃないかと思いましたね。
そして、良いメンバーに恵まれました。同じことを今からやれと言われてもできませんね。
メンバーの地域を愛する思いが周りの人を巻き込んで、意識を変えていったのだと思います。
まさにProud HARAですよ。
※Proud HARA:「原の誇りを見つけよう!原の誇りを楽しもう!原の誇りを広めよう!」これからの原を創造するキーワード

▶印象深いエピソードを教えてください
道路を拡張するために、土地の一部を寄付していただくお宅があるんです。
ご自身の財産である土地を寄付するんですから大変な決断ですよね。
事業を始めた頃は、工事のための通り抜け交通の発生や、騒音の問題などの理由で
前向きに考えられない方もいました。しかし、工事が進み整備された道路を目の当たりにして、
「素敵だね」、「きれいになったね」と喜んでくれる人が増えたんです。
そんな喜びや共感を通じて、あの人が協力したなら私もと、次第にプラスの連鎖が生まれ、
地元の白隠の里づくりへの意識が変化していきました。

▶暮らしは変わりましたか
道路が綺麗になり雰囲気が明るくなりました。
昔の景観を今に生かした空間で歩いていて楽しいですね。
なにより緊急車両が通れるようになったので安心して暮らせるようになりました。

▶事業を振り返って
この15年間を振り返ると、喜びを“共感”、“共有”することの大切さを知り、
まちづくりは心がつくる」ということを実感しました。
この事業は、市と共に地元住民が主体となって生活の実態を伴った事業でした。
例えれば、市が舞台づくりをし、地元住民が演じました。
行政が「~することが決まりました、~します」と一方的に事業を進めるのではなく、
住民の意見や気持ちを尊重してくれたことがすごく有難かったですね。
事業着手当時、市と住民が協働して行う事業の先駆けだったのではないかと思います。
市と地元住民が同じ目的に向かって気持ちをひとつに進むことができたこの事業は成功事例と言えるでしょう。

(取材を終えて)
事業は完了しますが、今後も市と地域住民と協働で安らぎを与えるまちづくりを続けていくそうです。
お二人にお話を伺い、事業を進める原動力となった「Proud HARA」の想いに、
白隠禅師の「共存共栄」の教えが受け継がれていると思いました。
「Proud HARA」が共感を呼び、原地区がますます盛り上がっていくのを楽しみにしています。
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この記事を書いた市民ライター

この記事を書いた市民ライター

増田 都佳佐

原地区の方々が、「松蔭寺」、「白隠禅師」のことを「白隠さん」と呼ぶことに気づいた時、深い愛情を感じました。そして、白隠禅師の生涯や教えを伺ううちに、地域の方に愛される理由に気づくことができたと共に、白隠禅師に魅了されてしまいました。取材にあたりご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。取材を通じ、私にとって原地区がとても身近な場所になりました。
 

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